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満洲10:1946年以降の国共内戦。中国共産党が中国を制覇していく過程はまだ謎に包まれている。

『真実の満洲史1894ー1956』(宮脇淳子著・岡田英弘監修・ビジネス社)

以下メモ。

P238。満洲における五人の実力者「二キ三スケ」=岸信介鮎川義介松岡洋右星野直樹東条英機

P239。満州国の発展。第一次産業開発五ヶ年計画(1937年~1941年)、第二次産業開発五ヶ年計画(1941年12月~)。

P243年。日本政府は満洲国建国後「満洲移民百万戸計画」を立案、それを満拓(満洲拓殖株式会社のち満洲拓殖公社)が取り仕切った。満拓が1941年春に所有していた2000万町歩の土地のうち、中国人がすでに耕していた土地は350万町歩だった。日本政府の方針は、「日本移民のための土地買収は未墾地に限る」というものだった。

P247。「光」は漢語では「すっかりなくなる」という意味。

P250、251。溥儀は三歳で清朝皇帝、六歳で退位、十八歳で紫禁城を立ち退く、帝王教育を受けていない。関東軍ソ連をモデルにした共和制の新しい国を創ろうとしていたから古い皇帝(溥儀)の復活を望まなかった軍人たちも多かった。満洲国はそれぞれの民族と言葉、宗教を弾圧していない。

P254。旅順と大連のある関東州は満洲国ではなく、日露戦争後に正式に条約を結んで得た日本領である。日本にとっては関東州は巨大な租借地で、イギリスが香港を持っていたような感覚のものだった。

P256。関東大震災後に大杉栄を殺したのは甘粕正彦ではないと思う。のち甘粕は満洲映画協会満映)の理事長を務めた。

P258。大東亜戦争がはじまる1941年の段階で、多くの国民は本気でアジアの解放を信じていた。

P264。ノモンハン事件のことをモンゴルではハルハ戦争という。モンゴルではハルハ河の周囲がひとつの遊牧地であって、河で国境を区切るという概念はない。

P265。ノモンハン事件の後に関東軍司令官となったのは梅津美治郎(1882~1949。大分県中津出身)。

P266。関東軍、1945年夏、在満日本人25万人の根こそぎ動員計画を実施。八月、終戦間際に174万の極東ソ連軍が満洲および南樺太・千島に侵攻。

P280。日本軍捕虜50万人のソ連移送と強制労働。(総計70万人ともいわれる。)これは「シベリア抑留」ではない。なぜなら、シベリアだけでなくモンゴル共和国、北朝鮮ウズベキスタン、ヴォルガ河、コーカサスにも連れて行かれたから。「ソ連抑留」あるいは「共産圏抑留」だ。

P287。日本が戦争に負けた時、支那には128万人の日本軍がいた。日本軍の在華最高司令官は岡村寧次大将(1884~1966)。

P296。1945年の日本敗戦以降の国共内戦共産党が中国を制覇していく過程は全く分かっていない。

P298。1950年2月、中華人民共和国ソ連が新条約を締結。中国は借款を認められる代わりに、満洲と新疆地区をソ連の勢力範囲としてその独占的権利を認める。(毛沢東満洲と新疆を売った。)ほぼ同時期に絶対権力者となった二人、スターリン毛沢東の「暗闘」。毛沢東は1936年に延安に着いた頃にはライバルを粛正して絶対権力者になっていた。スターリンが粛正によって最高権力を得たのは1937年頃。

P299、300。朝鮮戦争(1950~1953)に中国が兵を出したのは満洲を確保する目的もあった。(当時まだ旅順、大連港、中東鉄道(もと東清鉄道)などはソ連のものだった)。朝鮮戦争の結果、毛沢東満洲を手に入れた。スターリン朝鮮戦争の最中に死亡。フルシチョフその他の後継者はもはや毛沢東の敵ではなかった。中ソ対立。

毛沢東(1892~1976)

スターリン(1879~1953)

  

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