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『実録アヘン戦争』を読む2:林則徐は失敗を予見していたのかもしれない。資料は魏源に託された。魏源は資料をもとに『海国図志』を書いた。

アヘン戦争(1840~42)当時の清朝皇帝は、第八代道光帝だった。

第六代乾隆帝・在位1735~1795(生没年:1711~1799)

第七代嘉慶帝・在位1796~1820(生没年:1760~1820)

第八代道光帝・在位1820~1850(生没年:1782~1850)

賢帝とうたわれた祖父・乾隆帝の治世を道光帝は13歳になるまで身近に見たことだろう。父・嘉慶帝の頃から、清朝は勢いを失いつつあった。

 

ネーピア事件」の後、献策があった。皇帝に上奏できるのは官位の高い者に限られていた。アヘンを一部合法とすることで、密輸の弊害を取り除くという献策もあった。しかし林則徐の友人、「宣南詩社」の同人でもあった黄爵磁は、「アヘン吸食死罪論」を奏上し、皇帝に採用される。それを実施する最高行政官として、林則徐が任命された。広東の水師(海軍)の指揮権をも併せて与えられた(欽差大臣関防)。林則徐は拝謁し、破格の待遇を受け、任地・広州へと向かった。ブレーンというべき秘書官を何人も抱えることができたが、魏源や自珍ら「宣南詩社」のメンバーらは採用されなかった。著者の陳氏は、失敗に帰した場合を考えてあえて遠慮したのだろうと推測している。結果は林則徐が憂慮したように失敗したのだが、林則徐は左遷されて新疆に赴くときに、集めた資料、英字の海外事情や船砲模型図などを記した書物などを漢訳させたものを、「宣南詩社」同人の魏源に託した。これをもとにして魏源は『海国図志』を著した。

 

林則徐は「ネーピア事件」を実際に見たわけではないが、広州で実地に見聞した人たちから情報を集め、西洋の武器の強力なことは知っていた。だが国防能力を高めるための時間があまりに短かったのだろう。国防力・軍事力はその六年間でどの程度高められたのか。まだ実際の海戦の場面は読んでいないので分からないが、皇帝と林則徐とのやりとりを読むと、「アヘン対策」に偏重しており、国防の方にまで手が回っていないように感じた。

 

この本にも、難しい感じにはルビ(よみがな)が振ってあるが、そのルビについての但し書き(注)があった。

 

≪(注・人名のルビは、漢族の場合は、ひらがなで日本読みにした。カタカナの原音であらわしたのは、満州族の名である。)≫

 

清朝満州族女真族)の支配した王朝、征服王朝

 

林則徐の命令で、陸にある「夷館」(外国の貿易商社が賃借していた建物)が軍によって包囲され、大量のアヘンが押収、処分された。海に投棄したり燃やしたりするだけではアヘンは再び抽出できてしまうらしく、塩や石灰を使って再利用できないようにして処分された。「夷館」には、イギリス駐清商務監督のエリオット海軍大佐がマカオから駆け付けていた。エリオットは軍の包囲に恫喝されてアヘンの供出を約束したのだった。こうして、賽は投げられた。(なおこのエリオット・チャールズはアヘン戦争中の1841年1月に香港島に上陸・占領、イギリス領であると宣言した)

 

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