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『実録アヘン戦争』を読む1:アヘン戦争の六年前、その前哨戦と呼ぶべき「ネーピア事件」があった。

『実録アヘン戦争』(陳舜臣著、中公新書)を読みはじめた。陳舜臣氏は、長大な小説『アヘン戦争』の著者でもある。小説の方から読みはじめても良かったのだが、随分と分厚い本だったので、まずはこちらからにした。(以下は雑感であり、私が他の著書やネットで調べたことも含まれている)

 

アヘン戦争」といえば、イギリスと清との戦争で、1840年~1842年。この戦争で清が負けたわけだが、この敗北が日本に与えた衝撃は小さくなかった。清国の知識人らによって書かれた書物が持ち込まれ、研究された。

 

当時清は日本と同じように「鎖国政策」を取っていた。「交易」は広州のみ。これは日本の長崎に相当する。清は「交易」「貿易」を必要としていなかった。必要ないが、中華思想のもとで、「おなさけで許した」。むろんそれは「対等な貿易」ではない。清としては必要なものはないからイギリスは貿易赤字である。イギリスは銀が不足する。清では医療用だったアヘンの入用は多くはなかった。しかしそのアヘンの輸入が急増する。清はアヘンの輸入を禁止する。

 

まだ三分の一しか読んでないので、林則徐や友人の魏源やキョウ自珍(キョウは、襲の衣の代わりに共)らとともに、軽く触れられただけ。以上の三人は官吏でありその中で一番の出世頭が林則徐だった。彼らのグループは「宣南詩社」といい、十数名。「いずれも当代の俊才」と著者は書いている。魏源が著した「海国図志」は日本で幕末の志士らによく読まれた。

 

イギリス政府は、対中貿易の独占権を東インド会社に与えていたが、利益率が新興のアメリカと比較して段違いに悪いこともあって、独占権は取り消された。イギリスは国家として貿易を管理する体制に移行したいと考えた。まずは広州に領事館を置き、そこで貿易を管理・監督する。そのためにイギリスは、トラファルガーの海戦(対フランス、ナポレオン戦争)で活躍したウィリアム・ネーピアを派遣した。この企図は失敗に終わるが、迫るイギリスのフリゲート艦二艘を阻止できなかった清朝は、衝撃を受ける。筆者は書いている。

≪六年後にアヘン戦争が起こったが、このネーピア事件はその前哨戦であったといえる。イギリスはアヘン戦争によって、ネーピアのカタキを討ち、一方、清朝側は海防の不備を思い知らされながら、この六年のあいだに、有効な防備を整えることができなかったということになる。≫

 

なお「ネーピアのカタキ」とは、ネーピアが交戦して戦死したということではなく、マラリアに掛かっていて広州を退去してすぐに死んでしまったからだ。イギリスとしては「対等の貿易」を要求したかったが、清朝側は交渉そのものを拒否した、それをイギリス側は侮辱と受け止めたのだろう。(しかしそうであってもアヘン戦争が不義の戦争であったのは間違いないと私も思う。)

 

アヘン戦争1840~1842

魏源1794~1856

キョウ自珍1792~1841

林則徐1785~1850

ウィリアム・ネーピア1786~1834

 

なお清朝で貿易に従事していたのは、「公行」と呼ばれる貿易を許可された商社・十社のみ。この「公行」についても比較的詳しく書かれている。

 

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