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石井孝15:「維新期における日本の国際的地位」は、「半植民地的分割の危機」にあったのではない。

石井孝氏の著書『明治維新と外圧』を引き続き読んでいる。

この本は、『歴史学研究』という月刊誌の誌面上で行われた論争がもとになっている。

石井氏に対して「歴史学者失格」とまで言い放った(書いた)歴史学者芝原拓自氏の論考を批判するものであり、その応酬である。

ただしこの本に収められているのは、石井氏の論文のみで芝原氏のものはない。

 

「はしがき」にこの本の主題が端的に示されいるので引用したい。

≪さきの芝原氏との論争で、維新期における日本の国際的地位を「半植民地的分割の危機」にあるとする氏の説に対して、著者は、史実にもとづく検証を踏まえて、徹底的にこれを論破したつもりである。≫

 

芝原氏との論争の中で石井氏は、批判されている自説を再検討したわけだが、そうすることで、さらに一層、「石井学説」の説得力が増している。

私なんかも、「維新の頃は、列強の外圧が強く、日本は隣国の清のように、半植民地化され、分割されかねない危機の時代だった」と言われると、漠然と「そうだよな」と思ってしまいそうだが、事実はそうではなかった。

 

1860年から1870年頃のイギリスの対外政策を中心に、さらに詳細に検討し、より説得力ある論を展開している。

この間、駐日イギリス公使は、少なくとも三人が務めている。

オールコック、ウィンチェスター、パークスの三人で(ただしウィンチェスターは、パークスが赴任するまでの公使代理)、それぞれの公使が日本側と交渉した際の記録ややり取りした書簡などから、さらに時の英外相クラレンドンの公使へ与えた訓示などからも、この時のイギリスには、植民地化しようという意図がないことが分かる。

またこの頃の英国議会が、「小英国主義」という外交思想が主流であったことも示された。一言で言えばそれは、「貿易重視」である。

英国議会は、その後、大恐慌(大不況)を経て、外交方針を転換するが、明治維新期においては、「小英国主義」が主流だった。

 

また、英清間で結ばれた南京条約や天津条約と日本が諸外国と結んだ条約との比較検討もなされている。

 

石井孝氏は、この論争を通して、自説の誤りを訂正し、不備を補強するなどして、研究が深化している。その過程が読み手に分かる。

 

(まだ前半を読んだだけだが、パラパラと後半を眺めていたら、高杉晋作伊藤俊輔(博文)ともう一人、付き人のような少年、三人で撮影された写真があった。その三人の、あまりの「幼さ」に驚いた。この写真は、四国艦隊と長州藩の「下関戦争」のあった翌年撮影されたものらしい。長州のこの三人は、長崎のイギリス領事ガワーを訪問し、6日間滞在したとのこと。この時高杉晋作26歳、伊藤俊輔24歳、少年は現代の中学生くらいに見える。高杉晋作はこの2年後に28歳で死去。なお黒船で来航した米国のペリー提督は、日米和親条約を締結した時、60歳だった。教科書などに載っているあのペリーの写真は若い頃の写真か?)

 

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