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森鷗外4:『堺事件』20人の土佐藩兵卒が切腹を許された。フランスの要求は20人の死刑だった。

森鷗外歴史小説『堺事件』を読んだ。

舞台は明治元年(1868年)。

冒頭を引用してみよう。

明治元年戊辰の歳正月、徳川慶喜の軍が伏見、鳥羽で敗れて、大阪城をも守ることができず、海路を江戸へ逃れたあとで、大阪、兵庫、堺の諸役人は職を棄てて潜み隠れ、これらの都会は一時無政府の状況に陥った。そこで大阪は薩摩、兵庫は長門、堺は土佐の三藩が、朝命によって取り締まることになった。≫

 

事件は、こうした混乱状況の中で起こった。

フランス兵が堺へ来るという情報を町年寄が訴え出た。

もしフランス兵が官許を得ているのなら、外国事務係りから通知があるはずだが、まだない。

通知が間に合わないにしても、内地を旅行するには免状を持っていなければならない。

土佐の兵が堺で警戒していると、少人数のフランス兵が来た。

通訳に免状の有無を問わせると持っていない。

よって堺に入れるわけにはいかない。

フランス兵は少人数だった。大阪へ引き返した。

その日の夕方になって、(堺にある)土佐歩兵の陣所に、町人が駆け込んで、港から水兵が上陸したと訴えた。

港近くに来て、20艘の艀(はしけ。小舟)に乗って上陸したのだ。

フランス水兵は堺で、特別に問題のある行為をしていたわけではないが、旅行を許可する免状もなし、通訳もいなかった、帰るように身振り手振りで説得したが帰ろうとする者はいない。

そこで、捕縛して陣所へ連れて行け、ということになった。

縄を掛けようとするとフランス水兵たちは波止場目ざして逃げていった。

隊旗が町屋の戸口に立てかけてあったのだが、逃げる水兵の一人がそれを奪っていった。

 大切な隊旗である。

 むざむざと奪われるわけにはいかない。

隊旗を奪還した際に、乱闘が起こり発砲があり、銃撃戦になった。

結果フランス兵の死者は13人に上った。

土佐藩は、外国事務係りの沙汰で、堺の警護・取り締まりの役を解かれた。

フランス公使が外国事務係りに、損害賠償を求めた。

同時にフランス兵を殺害した隊の兵卒20人の死刑を求めた。

短編小説『堺事件』は、この20人の切腹の話が中心になる。

フランス側が求めたのは「謝罪」であり、「死刑」であったが、土佐兵卒にとってこの切腹は、皇国に殉ずることを意味した。子々孫々のためでもあった。

切腹を許されたということは、士分に取り立てられた、侍の身分に昇格したということである。(この時まで、20人中16人が士分ではなかった)

晴れの舞台だった。

外国事務総裁はじめ、その重役、諸藩の重役が列席していた。

むろんフランス公使も列席している。

フランス兵たちも銃を執って整列していた。

彼らフランス人が切腹を見たのは、初めてだったのかもしれない。

続々と、次々に、土佐の侍たちは腹を斬った。

左わき腹に短刀を突き刺し、右に斬り、上に斬り上げる、かつ腸(はらわた)を見事に掴み出す猛者もいた。

11人が終えた。

そして。

 

次のように書かれている。

≪フランス公使はこれまで不安に堪えぬ様子で、立ったり居たりしていた。この不安は次第に銃を執って立っている兵卒にも波及した。姿勢はことごとく崩れ、手を振り動かして何事かささやき合うようになった。≫

 

そしてフランス公使が退席した。

12人目が短刀を腹に立てようとした時、「しばらく」、という声が掛かった。

11人が切腹し、残り9人はその後、流罪ということなったが、明治天皇即位の特赦により、帰郷した。しかし、

 

士分取り扱いの沙汰はついに無かった。≫

 

 

概略、このようにしてこの短編歴史小説は幕を閉じる。

詳しい「調書」を元にして書かれたのだろう。

読み物として面白いのだが、一方で、この事件が何だったのかを、この事件に関わった人たちのために、文字にして記録しておきたい、という森鴎外の心映えが爽やかだ、切腹という、描きようによってはグロテスクになりかねない題材にも関わらず。

 

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