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『日本的「自然」について』(柄谷行人著『言葉と悲劇』所収) 自然(じねん)

今回は『日本的「自然」について』という講演録を読んだ。

柄谷氏の文章をまとめようとすると、なかなか骨が折れるので、今日はつらつら読むだけ読んでみよう、そう思って読みはじめた。

 

いつもの習慣で赤ペンでラインを引きながら読んだわけだが、まとまらなくても、このラインに沿って、ちょっと書いてみよう、そう思ったのがついさっき。

 

まずはじめに、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」という「有名な」論文に触れられている。

丸山氏によれば、日本の超国家主義ファシズムの特徴は、無責任の体系、つまり責任主体がいない、という。

一方、ナチの場合は、ニュールンベルク裁判の場においても、われわれは正しい、われわれは負けたけれども正しいのだ、そう主張した、という。

 

ちなみに講演のタイトルの「自然」は、しぜん、とも読むが、今回は、じねん、と読む場合の話題。

 

日本の超国家主義に話を戻すと、それは責任主体がない、何か自然にこうなった、というようなじねんの働きがあって、そのように結果になったのだと。

 

日本の場合、国境線を引くという必要がずっとなかった。国境線を引くという事は、線の外にも確実に世界が存在するということを考えないわけにはいかない。日本はそうする必要がなかった。だから日本人には、境界を作るということ自体に対する嫌悪感がある。作る、という事に対する嫌悪感。

 

ハイデガー存在論の核心は、自然というものを、ものとして見るか、働きとして見るかという問題である、と柄谷氏はいう。

ものとして見る、というのは、しぜん、という読みに対応する。

働きとして見る、これは、じねん、という読みに対応している、ということだろう。

 

構造主義における「構造」とは、基本的に数学から来ている。

数学でいう「構造」とは、変換の規則である、ということだ。

つまり「構造」とは、変換する働きであると。

もの、ではない。

ここで重要なのが、変換あるいは置換するときに、「何もしない」ということも「働き」の中に入る、と柄谷氏はいう。

「無為も為すことである」と。

 

この「何もしない」という働きが、確かにこの講演の重要なポイントになっているのだが、まとめるのは大変なので、次に進みます。

 

「自然」(じねん)を分かりやすい言葉でいうと、「自己差異化」と呼んでよいとのこと。

自己差異化とは、まず自分があって自己差異化するのではない。

「自分」と「自分でないもの」との差異化のことをいう。

なぜなら、そこから「自分」が出てくるのだから。

だから「自己差異化」というのは、意識よりも基底にある。

 

ハイデガーは、絶え間ない「自己差異化」のことを「実存」と呼んでいるという。

 

さて、やはりまとまらないし、つながらないが、今回はここまでにします。

 

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