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『江戸の注釈学と現在』(柄谷行人著、『言葉と悲劇』所収)。ポーカー・フェイス。

昨日は、伊藤仁斎についてのところまでを読んで終わった。

「つぎは徂徠と宣長についてもふれようと思います」と書いてあったので、伊藤仁斎については、ほぼ終了したのだと早合点していたら、それからしばらくまた、伊藤仁斎の話だった。付け足しのように書かれたその仁斎の話が、一番面白かった。

 

そうして最後まで読んだ。

終わりの方で例の≪いうまでもなく、僕は宣長に対して批判的です≫とあるのだが、その次の文に私は少しばかり驚いた。

≪しかし、それについては別のところで何度も述べています。≫と書かれていた。

 

柄谷氏は、「いうまでもなく」と書いている。いうまでもなく宣長に対して批判的である、と。もしこれまでに何度も「宣長批判」をしてきたのであれば、「いうまでもなく」という言葉にもうなずける。

その批判は、「別のところ」なので、どういったものだったのか、それは今は分からない。

 

最後まで読んでみて、その後、私がすっ飛ばしたところで、何か「宣長批判」があるかもしれないと思って、はじめの方も読んでみた。

 

そこで発見したのが、「近代の超克の連中」批判だ。

「近代の超克」というのは戦前日本における一種の思想運動だと思うが違うかもしれない。

その「イデオローグ」の一人に小林秀雄が数えられていて、小林秀雄のライフワークが『本居宣長』であることは、「周知のとおり」、であるとやんわりと批判している。

 

柄谷行人氏の大っぴらな「小林秀雄批判」は読んだことがない。

読んでみたい。

それはおそらく、本居宣長に対する批判とも関連しているだろう。

 

しかしどうだろう?

前々回に書いたが、柄谷氏の描いた本居宣長イオニアの思想家たちに似ていた。少なくとも、本居宣長を高く評価していた。

 

ただし柄谷氏がイオニアの思想家について詳しく書いたのは、『哲学の起源』が初めて※だという点は留意しておく必要がある。『哲学の起源』の初版は2012年であり、『江戸の注釈学と現在』と題した講演が行われたのは1985年だ。

※私の知る限り。

 

私が前回すっ飛ばして、今回興味深く思われたのは、「現在」についての話です。

この講演のタイトルは、『江戸の注釈学と現在』で、その「現在」の方です。

もちろん日本の「現在」です。

 

ここで柄谷氏は、「近代の超克」にふれて、軽く批判している。そのことと「現在」の日本がどうつながるのか。次回、ここを精読しながら考えてみたい。

 

しかし柄谷行人という人は、きっとポーカーが強いんだろうなあ、と読みながらふと思った。ポーカー・フェイスなのだが、時に激情が隠し切れない。

 

なお、江戸時代の思想家たちについては、小林秀雄氏や江藤淳氏がかなり詳しく書いている。とてもおもしろかった。