ブログ「偉人列伝」(小説・批評・文芸・映画・政治・

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柄谷行人著『「理」の批判ー日本におけるモダンとポストモダン』。1986年の「空洞感」。

講演録。フランスで行われた講演録。1986年。

 

理(ことわり)の批判というのは、一応、理性・合理(ロゴス)の吟味、ということだが、これだけでは何が何だか分からない。

柄谷氏はこれを奇抜に、しかし分かりやすく説明している。

たとえば次のように。

≪道理、原理、真理、論理、理念、理性、理由…そして「理」の批判というとき、「理」は、このような諸概念をすべて含んでいるのです。≫

 

 

1986年といえば、日本においてもポスト・モダン(脱構築)が大流行していた時期だ。ちなみに1983年に、文藝批評の創始者小林秀雄が亡くなり、浅田彰が『構造と力』を出版した。

 

柄谷氏はここで、日本におけるポストモダンについて書いている。

三島由紀夫本居宣長についての話が中心。

 

柄谷氏は、本居宣長のいう「もののあはれを知る」ということを、実に分かりやすく説明している。宣長は「知・情・意」あるいは「真・善・美」のうち、「情」あるいは「美」を、「知」の基底に置こうとした。

 

宣長は「古事記」を相手に、延々とその注釈を書いた。

しかしそれは後に誤解あるいは曲解されていった。

たとえば「神の道」という言葉。

柄谷氏によればそれは、≪もはや真理ではなく、「真理なるものの非真理性」を開示するところの真理です。彼(注:本居宣長)は、矛盾に満ちた「自然=生成」を肯定します。≫

 

こうして読んでみると、本居宣長が説いていることが、俄然イオニアの思想家たちと似てくる。しかもそれがより身近なものとして。

 

現代の日本では、なにか空洞が広がっている、と柄谷氏は感じていた。

その「空洞感」を柄谷氏自身も共有していることを否定できない、と書いている。

1986年のことだ。