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柄谷行人著『探究1』を読む(3)。ドストエフスキーの「独白」。および柄谷氏のいう「力」について。

 

ドストエフスキの「独白」が「対話的である」という考え方が興味深い。
ドストエフスキーの小説の魅力のひとつは、その、長い長いセリフにある。いつまでもいつまでも、延々と続いたりするのだが、それが飽きさせるどころか、実におもしろいのだ。(夏目漱石の『明暗』に登場する女性たちのナガゼリにも、同じような面白さがある)
現実には、あれほどの長い言葉を、一方的に話し続けるような状況はちょっと想像できないが、それが、「対話的である」というのだ。
それは、その発語が、「他者に向けられている」からだ。
「ノーマルなコミュニケーション」においては、言葉は、そこまで直截に他者に向けられてはいない、ということだ。

 

以下引用

≪ドストエフスキの人物たちは、何かをいったあと、相手がいいかえす前に、それを先取りし、さらにそれを否定してしゃべりつづける。ふつうの意味では、これは対話ではなく、一方的な独白である。が、これが対話的だというのは、彼らの発語が”他者に向けられて”いるからである。彼らにとって耐えがたいのは、何かをいう(say)ということが、いつも別のことを意味してしまう(mean)ということなのだ。あるいは、「意味する」ことが、自分自身(私的規則)によるのではなく、まったく他者に依存してしまうという条件なのである。≫

以上引用

 

ドストエフスキの登場人物たちは、延々としゃべりつづける。あるいは、延々と「考え続ける」(これは「独り言」として表現されている)のだが、それはいつも、自分ではない者たち=自分には思いもよらないような考えをするかもしれない者たち=他者、を意識し、その他者の考えを先取りして、延々としゃべりつづけ「考え続ける」。

「ノーマルなコミュニケーション」においては、話し相手の考えは「想定内」であり、延々としゃべりつづける必要はない。


つづく。

 

(追記)「探究1」は、1985年=昭和60年から月刊誌「文學界」に連載された論文がもとになっている。小林秀雄が亡くなったのが、昭和58年だ。

「探究」は、書き始められてから7年後に、文庫になったのだが、その「あとがき」に興味深いことが書かれている。

 

≪『探究』を書きはじめてから七年以上経っている。(中略)七年は、あるテクストがそれがもともと属していた文脈から切り離されるのに必要な最小限の長さである。それ以後、テクストは、それ自体の力以外によっては存続することができないといえる。しかし、その力が何であるかはわからないし、予測不可能である。≫

 

柄谷氏の『探究』というテクストは、34年後の今も「存続」しているといっていい。なぜ『探究』はいまだに「存続」しているのか。それはある「力」によって。ある「力」が「存続」させているのだ。

 

先日の山崎行太郎先生のブログで知ったのだが、最近柄谷氏がその著書『マルクスーその可能性の中心』と「力」、というようなタイトルで講演をしたそうでその講演原稿が月刊誌に掲載された。『探究』は、『マルクスーその~』の続編である。柄谷氏は、このようにして、ずっと、この「力」について考え続けておられるのだ。

「力」とは何か?山崎行太郎先生の「柄谷行人論」に注目していきたい。

 

『探究1』の「あとがき」には、次のようにも書かれている。

 

≪七年前には、『探究』は私のなかでクーデターであった。(中略)私は、私の「真意」が伝えられることを期待していない。そんなものはありえないのだから。≫

 

「クーデターであった」と柄谷氏は書いている。この言葉を私は軽いものだとは思わない。文字通り、柄谷氏のなかで、それはおそらく「クーデター」であったのだ。(クーデター=既存の政治体制を構成する一部の勢力が、権力の全面的掌握または権力の拡大のために、非合法的に武力を行使すること。国家権力が一つの階級から他の階級に移行する革命とは区別される。)

 

柄谷氏の心の中の「既存の政治体制を構成する一部の勢力」が、「権力の全面的掌握または権力の拡大のために、非合法的に武力を行使」したのだ。

それは、ある「力」によって、である。柄谷氏が意識的にそうしたのではない。

これは、ある「力」によって強いられた「転向」、と言っていいのではないだろうか。いまだに柄谷氏のテクストを「存続」させている、あの「力」が、柄谷氏を「転向」させたのだ。

 

「探究」を書きはじめてから七年後、今から27年前、柄谷氏は、≪私の「真意」が伝えられることを期待していない。そんなものはありえないのだから。≫と書いた。

先日行われたという講演会で、柄谷氏は、その「真意」を伝えられたのかどうか。

 

そして『探究2』(講談社学術文庫)のあとがきには、「私の関心事」について書かれている。

 

≪この本が書かれていたときは、私の関心事を本当に理解する人は少なかったと思う。まして海外でそれを期待することはできなかった。しかし、現在アメリカにいて、私が考えていたことがようやく現実性を帯びはじめているように感じている。第一に、ポスト構造主義あるいはポストモダニズムによって片づけられた「主体」の問題があらためて問われねばならなくなっている。それはたぶんsingularityとして出てこざるをえないだろう。第二に、(後略)≫

 

あえて偽悪的に解釈すれば、柄谷氏は、自らの手によってまき散らしたポストモダニズムという毒によって、自分自身がひどい風邪をひいてしまった。高熱が出た。

熱にうなされ朦朧としているときに、「探究」が書かれはじめた。何が書かれるのか、自分自身にも定かではない。それは、ある「力」によって、書かれた。

柄谷氏はその時、

≪書くことが生きることであるということを、私ははじめて実感している≫

と、率直に書いておられる。(『探究1』あとがき)

 

さらに、『探究2』の文庫本あとがきにも、

≪同じように私は現在も「探究3」を書いている。そして、これらを書いている時だけは「考えている」という実感がある≫

と書かれている。

 

私は、柄谷氏の「転回」は、昭和58年頃、つまり小林秀雄が亡くなった頃から始まったのではないか、と思う。

 

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