ブログ「偉人列伝」(小説・批評・文芸・映画・政治・

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≪「教える―学ぶ」という非対称的な関係が、コミュニケーションの基礎的事態である。≫(柄谷行人)

柄谷行人氏の『探究1』(講談社学術文庫)を今日も少し読んだ。

 

≪「教える―学ぶ」という非対称的な関係が、コミュニケーションの基礎的事態である。≫

 

と書いてある。

非対称的な関係の典型として、外国人、子どもなどが示されている。
上の引用文だけを眺めているとよく分からないが、「ああやっと、意思の疎通ができたなあ」と思うのは、同世代の生活圏を共有してきた大人ではなく、外国人や子どもたちなどであることは、日常的な経験だろうと思う。
逆にいえば、私たちの普段の「会話」というのは、コミュニケーション(=意思の疎通)なのではなく、約束事の確認作業、なのかもしれない。
共同体にとって、約束事の確認作業、というものは、重要ではある。死活的に重要であるといえると思う。
しかしそれは、コミュニケーション(=意思の疎通)ではない?

よく分からないが、外国人や子どもたちとの「対話」の方が、より労力を要するし、より刺激があり、「他者」との会話であるという実感はある。