ブログ「偉人列伝」(小説・批評・文芸・映画・政治・

いろいろ書きます。 メルマガ「偉人列伝」もどうぞ。 ご登録はこちらから。 → http://www.mag2.com/m/0001682071.html

柄谷行人著『探究1」(講談社学術文庫):「語る―聞く」という関係ではなく、「教える―学ぶ」という関係。「他者とはなにか」

■『探究Ⅰ』1-1
第一章は、「他者とはなにか」である。
「語る―聞く」という関係ではなく、「教える―学ぶ」という関係において、「他者」が現れる。
「他者」とは、私自身の確実性をうしなわせる者である。
「他者」がいない世界とは、モノローグ、ひとり言の世界である。

「教える―学ぶ」という関係とは何か。

 

《「教える―学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配的であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意(しい)に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。》(『探究Ⅰ』、講談社学術文庫p8)

 

「共同体の外部へ出ようとする意志」を「デカルトはそれを精神とよんでいる」と柄谷氏は書いている。

外部とは、他者のいるところである。
他者のいないところに精神はない、ということである。

この「精神」こそが自由、ということではないのか?

「外部」ではないところに閉じ込められた、「精神」と勘違いされたものは、「内省=モノローグ」でしかない。

 

再び、他者とはなにか。
それは「私自身が思いこむ確実性を崩壊(ほうかい)」させる者である。

急ぐまい。(急ごまいではない)。