ブログ「偉人列伝」(小説・批評・文芸・映画・政治・

いろいろ書きます。 メルマガ「偉人列伝」もどうぞ。 ご登録はこちらから。 → http://www.mag2.com/m/0001682071.html

漱石の小説『虞美人草』。

甲野さんと宗近君たちは京都の宿にたどり着いていた。雨が降っている。
掛け軸には、三本の筍(たけのこ)が描かれている。宗近君は何かと甲野さんに話しかけている。

 

≪「まあ立ん坊だね」と甲野さんは淋しげに笑った。勢い込んで喋ってきた宗近君は急に真面目になる。甲野さんのこの笑いを見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑(はいふ)に入る。面上の筋肉が我勝ちに踊るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻を起こすためでもない。涙管の関が切れて滂沱(ぼうだ)の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床を斬るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
 毛筋ほどな細い管を通して、捕えがたい情けの波が、心の底から辛うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に転がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、捕まえた人が勝ちである。捕まえそこなえば生涯甲野さんを知ることは出来ぬ。
 甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷ややかである。その大人しいうちに、その速やかなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は明らかに描き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己である。斬った張ったの境(さかい)に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点するようでは親子といえども未だしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、はじめて甲野さんの性格を描き出すのは野暮な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出てくるものではない。≫(『虞美人草』(三))

 

甲野さん、宗近君、それから小野さんは、二十七八才の青年である。藤尾は二十四才。

 


メールマガジン「偉人列伝」、
ご登録はこちらから。

http://www.mag2.com/m/0001682071.html