ブログ「偉人列伝」(小説・批評・文芸・映画・政治・

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「小林秀雄と平家物語2」

数年前に書いた原稿に若干追記しました。

小林秀雄平家物語2」

小林秀雄は、戦後昭和二十五年に、「きけわだつみのこえ」という短いエッセイを書きました。
ここで、かつての「合戦」と現代の「戦争」との、決定的な違いについて述べています。

《人間らしい物語を創り出すことのできるような戦争も実際に可能だった時代もあったのである。
しかし、今となってはもう駄目だ。
学生の手記中には、娑婆(しゃば)という言葉がしばしば使われているが、出征すればもう彼等は娑婆にはいないと皆感じている。
現代の戦争とは、もはや娑婆の出来事ではないのである。
恐るべき兵器を前にして、人間はもはやその勇気を試すことも、その意志を鍛えることも不可能だ。
爆弾の餌食に英雄も卑怯者もない。
戦争という暴力、それはもはや悪でさえない。悪なら善に変らぬとも限るまい。
私は、学生の手記に現われた不安や懐疑の底に、彼等が見たに違いないものを見る。
それを彼等は、仕方なく死という言葉で表現する。
仕方なくだ。
だが、それは人間の死ですらないことを彼等は感じていることを私も感じる。
それは化物だ。》P199『小林秀雄全集第九巻』新潮社

 


ここで小林秀雄がいう「人間らしい物語」とは、「平家物語」のような物語を指していると見て間違いありません。
そのような「戦争」もあった。
しかし第二次世界大戦のような、あるいは第一次世界大戦も含まれるかもしれませんが、二十世紀の戦争は、もはや、人間の業(わざ)ではない、それは化物の業だと、そう書いている。


「人間らしい物語」、これはどのような物語なのか、そのことについて、小林秀雄は様々な所で書いていますが、そのひとつを引用してみたいと思います。
「人間らしい物語」とは、すなわち「歴史」である、と小林秀雄は言っているように聞こえます。
プルターク英雄伝」という小品から引用します。


《 歴史を鏡と呼ぶ発想は、鏡の発明とともに古いように想像される。
歴史の鏡に映る見ず知らずの幾多の人間達に、己れの姿を観ずる事が出来なければ、どうして歴史が、私達に親しかろう。
事実、映るのは、詰まるところ自分の姿に他ならず、歴史を客観的に見るというような事は、実際には、誰の経験のうちにも存しない空言である。
嫌った人も憎んだ人も、殺した人でさえ、思い出のうちに浮かび上がれば、どんな摂理によるものか、思い出の主と手を結ばざるを得ない。
これは、私達が日常行っているいかにも真実な経験である。
だから、人間は歴史を持つ。
社会だけなら蟻でも持つ。》P115『考えるヒント』文春文庫

 

「人間らしい物語」とはすなわち「歴史」である、このように小林は考えていた、と私は思うのですが、根拠があります。
それは次のような一節です。


《「平家」は、人々を、専門的な文学の世界に導こうとしてはいない。
人々の日常生活から発する雑然たる要求、教えられたい要求にも、笑い飛ばしたい要求にも、詠嘆の要求にも、観察の必要にも、一挙に応じようとしている、そんな風な姿をしている。》P107同上


これは昭和三十五年に書かれた「考えるヒント」の中のエッセイ「平家物語」の一節です。

「人々の日常生活から発する雑然たる要求」に応えるような物語、それは「人間らしい物語」です。
それは、「私達に親しい」ものです。
「私たちの歴史」とは、その様なものではないでしょうか。


古代ギリシャ人の歴史」を私たちは、理解はできます。
しかし、「親しみ」がわくかどうか、「平家物語」ほどの親しみを持って読む事ができるかどうか。
出来ないでしょう。
読んでいてとても面白い。
そうか、彼等はそんな風だったのか、そういう面白さだと思います。
しかし、「平家物語」が持っている、私達の無意識に訴えかけてくるような、そうしたものは欠けていると思います。
先に引用した「プルターク英雄伝」で小林はこんな風にも書いています。


《またツキディデス自身も、人間は、いずれ又同じような目にあうのだから、過去の経験を忠実に記録して置くのは無駄ではない、というはっきりした考えを持っていたと言う。》P114

 

ツキディデスとは、古代ギリシャの歴史家で、ペロポネソス戦争を記した「歴史(戦記)」という長大な記録を残した人です。
良質な翻訳が出ています。
とても面白い。西洋の政治の場で、このようにして弁論術が発達したのだなと、見事な、非常に説得力のある弁論が展開されています。
悪く言えば、非常に、「口が達者」なわけです。そんな風に、やや離れた視点で、やはり読んだのです。
身近な、親しみを込めて読む、そういう読み方にはなりにくい。

繰り返しますが、ツキディデスの「歴史」は、本当に面白いです。
しかし、親しみ、という一点で「平家物語」とは一線を画しています。
優劣の問題ではなく、「私たちの歴史」ではないということです。

 

外国の「歴史」との比較ではありませんが、小林は、「平家物語」についてこんな風に書いています。


《わが国の古典で、「平家」ほど複雑な構造を持った文学はない。
和漢混淆文(わかんこんこうぶん)どころの沙汰ではない。
高度に微妙な抽象的な語法から、全く通俗な写実に至るものがある。
仔細らしい説教から、理屈抜きの娯楽に至る、層々として重なる厚みある構成がある。
これらに、人々の様々な類型と劇とが配分され、抒情と叙事とに織りなされ、その調べは、暗い詠嘆から、無邪気な哄笑にわたる。
言うまでもなく、「平家」十二巻の作者は、個人を超えた名手であって、(後略)》P105同上

 


平家物語」原典において、木曾(源)義仲が描かれています。
戦はめっぽう強い。
数の上では圧倒的に不利な戦場において、味方にほとんど損失を出さずに、敵をほぼ全滅させます。
倶利伽羅落(くりからおとし)です。
平家をなぎ倒して、都に上ります。
平家は、天皇を戴いて、西国へ逃れます。都は一時、義仲に占拠されます。
義仲が天下を取ったのです。
この辺りまで、義仲はかっこいいです。
しかしその後の義仲の描かれ方は、滑稽です。
都会を知らない田舎者として描かれます。
田舎者丸出し、馬鹿丸出し、です。


にもかかわらず、小林によれば、松尾芭蕉は、この義仲のことが好きだった。引用してみます。


芭蕉は義仲が好きだった。何故この優れた自然詩人が、自然を鑑賞した事など一度もなかった義仲を好んだか。
この理由を彼に教えたのは「平家」以外のものではあるまい。
「木曾殿と背中合わせの寒さかな」は「さてこそ粟津(あわづ)のいくさはなかりけれ」と続くのである。》P110

 


義仲は、鎌倉から進軍してきた頼朝配下の大軍団に敗れます。
もはやこれまで、という所で、栗津の松原で自害しようとします。
しかし義仲は粟津にたどり着く前に、薄く張った氷を踏んでしまって沼田に落ちます。
身動きできない。
頼りにしていた部下であり親友であり、乳母の子であった今井兼平(かねひら)を探します。
振り向いたその時に、一本の矢が、義仲の首を貫きます。
寒い冬の日でした。
義仲は、滑って転んで、沼にはまって、助けてくれよと振り向いた瞬間に、矢を射られました。
結局、自害することにも失敗し、あっけない最後を遂げました。


たぶんここを読んで、義仲に、親しみのような、身近な、にがさ、情けなさ、悔しさ、そうしたものを、わが事として、身につまされるように感じられるのは、日本人だけなのだと思います。
実に「情けない」死に様なのです。



追記:

 

今読み返してみて、源義仲(みなもとのよしなか)がどれほど戦上手だったのか、そのことが伝わらないだろうと感じました。


朝廷を我が物にした平家一族を京都から追放したのは、源義仲です。


義仲が破竹の勢いで、平家軍団を破って京都に攻めのぼり、京都を占拠したのです。


頼朝や義経も活躍したでしょう。しかし実際の戦場で、天下の軍団・平家軍団を次々となぎ倒していったのは、源義仲の軍団です。

 

源義仲、享年30歳。


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